文學のたくわえ

長年こどものできない夫婦がいて、それ以外の理由でもなんとなくギクシャクした間柄になっている。
ある日、女がバーだか喫茶店だかで一人たそがれていると
写真家だと名乗る男が女の横顔を無断で撮影してしまう。
後日またその写真家に会い、その時のポートレートを見せてもらうと
そこには自分でも見たことの無いような、なんというか、なまめかしいような表情の女の顔がうつっていた。
暫くして女は自分が身ごもったことを知る。
女は、自分が身ごもったのは、あの写真家にシャッターを切られた瞬間に違いない、と確信する。


向田邦子の小編のエピソードだ。
もうタイトルも忘れてしまったし内容もおぼろげなので細部は違っているかもしれない。
けれども、ここで強く印象に残っているのは
やはりシャッターを切られた瞬間に身ごもったと考えるくだり。
写真が撮影された経緯だとか写真家との間に何かやましいものがあったわけではないけれど
女はこの写真を誰にも見せてはいけないものだと考える。
自分がこれを読んだのは何もわからぬ高校生だったのだけど
それでも「なんか良いな」と思った。
向田邦子には「なんか良いな」が沢山ある。
その「なんか良いな」の大半は直接的な表現をせずに婉曲に、しかし美しく語る点にあると思われ
年端も行かない高校生にとって、「なんか良いな」からは沢山の「大人」を学ぶことが多かった。
先日、上記の小編のエピソードを断片的に思い出した時に
高校生の時よりも、ちょっとだけ「わかる」ようになっているな、と思った。
今また向田邦子を再読したら更に面白いだろうな、と思った。
手元に残っているのは『あ、うん』と『父の詫び状』だけなので
いつか時間ができたら全集などを紐解きたい
否、きっと四十代になってさらにまた感じる部分が多くなるのじゃないかなこれは、と思った。
こうしてみると、向田邦子作品に限らず、文學に至っては早熟だった私の場合
十代から二十代前半にかけて吸収した文學を
以降は年々反芻し咀嚼し焼きなおして楽しんでるだけな気がする。
勿論新しいものも読むには読むけれども、こうやってエピソードを思い出すほどには心に残ってこなくなってしまった。
だからもうあんまり本を買う気もしない。
そう考えると「本は若いうちに沢山読んでおけ」という押し付けがましい言葉は
私にとっては金言だったな、と思う。