2009年の抱負

気づけばもうすぐ松の内も開け、明日は七草粥の日。
我が家は夕御飯を揃って食べることが難しいので
せめて明日の朝御飯に中華風鳥粥でもしようと思っていたら
今夜のおかず(=明日の朝にも登場する)として作った「イカとじゃがいものワタ焼き」が思いのほかコックリした味で
こりゃぁー普通に炊いた白米で食べないと厳しいわということでお粥は見送り。
と、いうか、昨日のうちに捌いて、イカのワタに塩振って仕込んで作ったイカワタ焼きはとても美味しくできたがどう見ても酒のアテ。
今は今で夫の実家から貰った数の子を入れた「松前漬け」を仕込んでいる。
子供の頃、これが好きでねえ…おせちではこればっかり食べていたら
「この子は酒飲みになるよ」と言われ続けてきたが、その恐ろしい予言は見事に当たった。2009年後厄の年。
いま、「恐ろしい予言」と書いてみて、この語句、ダザイの小説に出てきた語句であることは間違いないのだけど
それがなんの小説だったかなんてもう思い出せない。
自分の中で文学濃度が薄まっていることをヒシヒシと実感するこの頃。
読書の絶対量が著しく減ったこともあるのだけど
本を読んでウワー!と思うことが減った気がする。
明治大正の近代純文学と昭和の無頼派あたりから受けたような純粋な感情の動きみたいのが起こらない。
それは私が年をとったせいで感動しなくなっているとしたらこんなに悲しいことはないな。
と、思ったけれども、年をとって感動しなくなっているというよりは
結婚したことにより「個」だけの感情が少なくなってきて…
すなわち「自我」が弱まった、というか「自我」で悩む回数が減った気がする。
だからなにかそういう文学のようなものを「自我で葛藤する際の指針」としては見ていないので
それで感情の動きがフラットな感じとなっているのだろうか。
結婚したことで?
2人だからシアワセで悩む必要ないの?っていうのでは無くて
自分の事以上に相手の事を考えているとか優先する事が多くて
自分の事で悩む隙が与えられないってのがホントの話だ。
なんだよのろけかこのリア充め!ではなくてホントにホントに小さくて所帯臭くて現実的な話だ。
例えば自分だけだったら「イカのワタ焼き」と、そのおかずに合わないとしても残り物の麺で済ませちゃうなーって場合でも
自分以外の胃袋や味覚を考えるとかそういう小さな事の日々の積み重ね。
そんなことが思考パターンに組み込まれて「自分」を考える機会が減って自我が無くなるみたいな感覚だ。
結婚してからずーっとそんなような事を感じてはいて
言葉は渦巻いているのだけど、うまくいえないかんじ。
全然ネガティブな話ではないのだけどね。
で、なんだっけ。
そうそう今年の抱負としては、自我はさて置き、薄まった文学濃度の復興を!
今年何したいかなーって考えたときに一番に浮かんだのは「本を読む」ことだったよ。
去年はホントに忙しかったからなぁ。
で、そもそもなんだっけ。
自我とか文学とか考えちゃったのは
今日、加湿器を買いたくてヨドバシに行って気づいたらCD売り場で「相対性理論」の新譜と旧譜を買っていて
それがすさまじく良くて久々に音楽聴いてざわざわして
なんだなんだこの感じ何かに似てるって思ったら
かつてナンバーガールを聴いた時に浮かんだ風景に似てる。
音の世界は全然違うけど。異常に文学的。っていうかすごいすごいすごい。なんだこれ。で自我を考えた。
細かい感想はまた今度。

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