青い花


海水浴に行きたいという年下の男性の為に水着を万引きしてしまう妙齢女の短編が太宰の作品にあったかと思うのだけどもタイトルを失念して、そんなことをぼんやりと考えていた一日だった。なんだっけなあ。『きりぎりす』?あの時期の一連の短編がとても好きなのだけど。


最近の週末は、許す限り川べりの道を走る。
そして走っていると何故か高校の現国やら文学史演習やらの授業やその時間内に壇上の講師の口からこぼれた小話的なことが思い出される。
なんだろな。いま走っているのは石神井川沿いなのだけども、ここの風景が母校までの通学路であった玉川上水沿いに似ているからだろうか。
吸って、吐いて、の連続的な呼吸のリズムでアタマが空っぽになっていく中でフッと文学の授業がよぎるのだ。
でもそれがよぎっても『懐かしい』だとか何の感情も沸かなくて高校の教室を俯瞰して眺めている感覚に近い。
何か、物事がアタマをよぎっても、ただそこに置いてとどめておく、というのはよく言われる瞑想の感覚に近いのかしらん?などと喜んでみたりして。でもヨガの時には「明日の夕飯は何を作ろうかなー」などと邪念ばっかり。だ。


最近はあまり本を読めない。
まとまった時間が取れないというせいもあるのだけどもポツポツとそういった過去の秀逸な短編なんかを読み返すのをしたいのかも。などと少し老成の域に。
あとはいわゆる個人ブログなどで恐ろしく巧い文章などを読むことが多くなったせいでもある。
素人さん?というか文章を書いて生計を得ていない人の文章なのに何者だこいつは?!というような
もはや嫉妬もおきなくてただただモニターの前で脱帽してしまい
もう私は文章なんぞ書かなくていいし、
ある文筆家−何人かの駄文を書いて荒稼ぎしている輩−なぞは
その個人ブログでも読んでとっとと筆を折れ!といいたくなるくらいだ。
機械とネットワークがあればいつでも素晴らしい文章が読めるということ。
元書店員としては複雑な心境だが。


複雑ついでに萩原恭次郎という大昔のダダイズム詩人の詩集『死刑宣告』の復刻版。

死刑宣告 (愛蔵版詩集シリーズ)

死刑宣告 (愛蔵版詩集シリーズ)


これのもうちょっと古い版を二十歳くらいの頃に神保町で買い求めたことがある。
その後どうしてもそれを読んでみたかった、という若い娘さんと知り合いになり
おおこんなところにファンが居たと喜んで貸した。
で、そのままもう帰ってこない。もう督促する気分でもないし自分よりも好きな人が持っているのはイイことだけど大事にされていなかったら悲しいなぁと思った。元書店員だけに。